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「末人」の跳梁――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(3−4)

折原 浩

200512

 

 

 

第四節 「天を仰いで唾する」もヴェーバーに届かず――「火遊びは火傷のもと」

 

1.フランクリン二文書抜粋に見られる経済倫理の理念型的定式化を、「人物」評と取り違え、いきなり『自伝』で検証しようとする無謀

 ヴェーバーは、「倫理」論文第一章第二節第4段落で、ベンジャミン・フランクリンの二短篇「富まんとする者への指針」と「若い商人への助言」から、かれの「経済観」「経済倫理」「経済志操」が端的に語り出され、「時は金なり」「信用は金なり」の二標語に集約されている箇所を、(フランクリン個人の「人物」ないし「人柄一般」を論ずるためにではなく)「資本主義の精神」(以下「精神」)の「暫定的例示」手段として抜粋し、引用している(以下「二文書抜粋」)。第7段落では、当の「フランクリンの道徳的訓戒 moralische Vorhaltungen Franklins(GAzRS, I, 34, 大塚訳、46、梶山訳/安藤編、94)について、「功利的傾向」の二証拠(ⓐ善徳への「改信」物語、ⓑ「控え目の狡智」勧告)と、反対証拠すなわち「功利主義を越えるなにものか」の二証拠(ⓒ「フランクリン自身のキャラクター」、ⓓ善徳の「有用性」への開眼を「神の啓示」に帰している事情)を、それぞれ挙示したうえ、「この倫理dieser Ethik」特性を、つぎのとおり定式化する。

「この『倫理』の『最高summum bonum』ともいうべき、人として自然な享楽をこのうえなくstrengst厳しくしりぞけて、ひたむきに貨幣を、それもいっそう多額の貨幣を追求して止まない[無制約的]努力は、それだけso完全に、幸福主義Eudämonismusや快楽主義Hedonismusといった観点[の制約]から免れていて、それだけso純然たる自己目的と考えられているために、いずれにせよ個々人の『幸福』や『利益』といったものにたいしてはまったく超越した、[その意味では]およそ非合理的ななにものか etwas gegenüber dem »Glück« oder dem »Nutzen« des einzelnen Individuums jedenfalls gänzlich Transzendentes und schlechthin Irrationalesとして立ち現れている。」(GAzRS, I, 35, 大塚訳、47-8、梶山訳/安藤編、94-5

  このとおり、ヴェーバーは、丸ごとのフランクリンないしはフランクリンの人柄一般についてではなく、かれの二文書抜粋の「道徳的訓戒」に顕示された「経済倫理」について、「功利的傾向を越える禁欲的特性を、方法自覚的に一面的に取り出し、相対的最上級としての極限にまで煮詰めて――ということはつまり、理念型的に鋭く――定式化しているのである。

 ところが、羽入は、羽入書の第三章第三節末尾でも、この箇所を、ヴェーバーが「フランクリンの功利的傾向を否認するために」「持ち出した」「三つ目の論拠(176)と取り違える。すなわち(本コーナーに掲載の拙稿「批判結語(3−1)」で指摘したとおり、「フランクリンは功利的か、それとも倫理的か」という形式論理的二者択一に囚われて、「功利的傾向」と動的拮抗関係にある「功利的傾向を越える側面」へのヴェーバーの論及を、短絡的に「功利的傾向」を「否認する」「論拠」と決めてかかるばかりでなく)、証拠と反対証拠とがこもごも提出され、相互の関係が問われている議論の土俵そのものを、フランクリン二文書抜粋の「道徳的訓戒」に顕示された「経済倫理」から、その限定を恣意的に取り払って、「丸ごとフランクリン論」ないしは「フランクリンの人柄論」に「間口を広げ」、議論をそれだけ弛んだ大雑把sweeping一般人物評に鈍化させる一方、フランクリンしか眼中にない狭隘な視圏に閉じ籠もり、主観的な印象評言を弄ぶのである。第四節冒頭では、対象のそうした取り違えに見合って、またしても自伝いきなり(当該理念型の「経験的妥当性」を検証する資料としての当否を問うことなしに)飛びつき[1]、「『自伝における一体どの部分のフランクリンの叙述を指してヴェーバーは右のような自分の主張の論拠としたのであろうか」と、的外れの問いを発し、「ここでもわれわれは、“……『純粋に自己目的と考えられている』ような金儲けに関する叙述”などというものを『自伝の内に残念ながら見いださない」(177)と、ピンぼけの答えを出して、「ヴェーバー藁人形」に襲いかかっている。

 だが、考えてもみよう。このばあい、なぜ『自伝』なのか。「要素的理念型」としての鋭い概念的定式化に対応するような、そうした叙述を、なぜほかならぬ自伝のなかに捜さなければならないのか。どうも、羽入には、自分のやろうとしていること、あるいはやっていることにつき、その根拠を問い返しよく確かめて提示しながら、一歩一歩思考を進めていこうとする、研究者には欠かせない慎重なスタンスが、身についていないようである。いつも早合点しては、あらぬ方向に猪突猛進し、自分では気がつかないために引き返しようもなく、むしろ「勝鬨を挙げて迷走を誇示する」という奇態を演じている。ということは、このばあいにも、ヴェーバーが当該の箇所でなにをやっているのか、いかなる限定のもとにフランクリン文献を取り扱っているのか、――ここにも自覚的に適用され、駆使されているヴェーバー歴史社会科学の方法が、かれには皆目分かっていない、ということであろう。勇猛果敢に挑みかかるものの、相手を知らないために、気負って大言壮語すればするほど、自分の「方法音痴」ぶりをそれだけ鮮やかに展示することになる。ヴェーバー本人ばかりか先輩からも(262)、「気をつけろ、悪魔は老獪だぞ」、「悪魔をやっつけようと思えば、悪魔と同じくらい精神的に成熟していなければならない」、「子どもの火遊びは火傷のもと」と、あれほど諭されていたのに、おのれを顧みず、「末人」衝動の怒気に駆られては勇み立つので、そのつど「天を仰いで唾する」もヴェーバーには届かず、という羽目に陥らざるをえない。繰り返しにはなるが[2]、ここでも、羽入の地平とヴェーバーとの落差を、当面の問題について具体的に明らかにしていこう。

 

2.冒頭の方法論覚書と、そのプログラムを地で行く後続叙述――問題は、暫定的例示手段(フランクリン二文書抜粋)に表明されている「経済倫理」(貨幣増殖と倫理との稀有の癒着)で、フランクリンの「人柄一般」ではない

 ヴェーバーは第一章第二節の冒頭で、@当該節の主題、すなわち(後段で「禁欲的プロテスタンティズムの倫理」に「意味(因果)帰属」されるべき)「被説明項」としての「精神」を、読者とともに歴史社会科学的概念的に把握する、という課題を設定し、この課題を達成する方法について、簡潔な方法論的覚書を記している(第1〜4段落)。その趣旨はこうである。すなわち、A当の概念的把握とは、(ある人には顕著に、他の人には微弱に、というふうに共有されている)「集合態Kollektivum的意味形象」として、「精神」の「理念型」概念を構成することであり、B「理念型」とはこのばあい、(「類的理念型」ではなく)「歴史的個性体」としての「理念型複合」のことで、それゆえC一挙には構成できず、むしろ歴史的現実から取り出される素材を用いて一歩一歩(一要素ごとに)組み立てていかなければならない。したがってDそれは、(研究が首尾よくいけば)結末において初めて十分に規定され、定義されようが、他方、なんらかの定義がなければ、なにを採り上げてよいのかも分からないので、研究に着手できず、もとより定義が可能な段階に到達すべくもない。そこでEこのディレンマを打開するために、研究の出発にあたり、読者との間で、対象について一定の事前了解を遂げて「緒につく」必要があり、そのためには、F当の精神を典型的に表現していて、望むらくは読者にも熟知されている意味形象[3]を、読者とのトポス(共通の場)」に選び、「暫定的例示provisorische Veranschaulichung手段として活用し、読者にその意味内容をまずは「直観的anschaulich」に把握してもらう。そのうえでGそのようにして直観された意味内容を、読者とともに、望むらくは「納得ずく、一歩一歩「概念的に加工」し、ひとつひとつを「要素的理念型」に仕立て、H必要とあれば、(当初の第一「要素的理念型」を仕立てるさいには、まさにそれを一面的に鋭く構成しようとすればこそ、承知のうえで捨象していた)他の関連側面ないし関連傾向[4]についても、別の意味形象素材[5]を補って、他の(第二、第三、……)「要素的理念型」を追加し、I順次、意味整合的に関連づけながら「理念型複合」に組み込んで、「精神「歴史的個性体」概念を構成していく、というプログラムである。

 「倫理」論文第一章第二節の後続叙述は、方法上、このプログラムに厳格にしたがって展開されている。ヴェーバーはまず、第4段落で、F「問題の『精神』をほとんど古典的klassischといってよいほど純粋に含み、しかも同時に宗教的なものとの直接の関係はことごとく失っているために、われわれの主題にとっては『予断が入らない』[6]という長所をそなえた」(GAzRS, I, 31, 大塚訳、40、梶山訳/安藤編、89暫定的例示手段として、フランクリンの『自伝』ではなく[7]、あくまでも研究主題の精神に関連するかれの「経済観」「経済倫理」「経済志操」を表明している二文書「富まんとする者への指針」、「若い商人への助言」を選び出し、そのなかからさらに、そうした「経済観」の特徴もっとも集約的に表示している箇所を、まさにそれゆえそのかぎりで意識的に選択抜粋する。しかもそのさい、「トポス」としての意義に則って、わざと、原典でも独訳でもなく、キュルンベルガーの『アメリカにうんざりした男』から孫引きしている。

  では、その二文書抜粋から、一読して直観される意味内容とは、なにか。それは、「時は金なり」(生活時間をことごとく貨幣増殖に捧げよ)と「信用は金なり」(対人関係を直接自己目的的consummatory」に享受するのではなく、遊休金を借り入れて運用し利殖に活かす手段として道具的instrumentalに利用せよ)との二標語に象徴されるとおり、「貨幣増殖」を当面少なくともこの二文書抜粋のかぎりでは最高善」とするような、ともかくもきわめて特異で注目を引く「生き方Lebensführung」ないし「生活規制Lebensreglementierung」への要請である、と要約してよかろう。つぎの第5段落で(改訂稿では「類的理念型」を導入して、いっそう厳密に)規定されるとおり、貨幣増殖をめざす「勤勉」「質素」「几帳面」「正直」「思慮深さ」といった「行為規範」項目が、同時に「目」として――すなわち、違反したばあい、たんに「愚鈍として嘲笑」されるだけの「処世術」としてではなく、むしろ「義務侵害」ないし「義務忘却」として「一種独特の非難」を浴び、ばあいによっては「制裁」の対象ともされる「定言的命令kategorischer Imperativ」の様相を帯び――、その意味で「倫理的な」「行為準則」として、口を酸っぱくして一途に説かれ、「モラリストのスタイルをもって」要請されている。別言すれば、まさに「勤勉を、名声をかちえる手段とする心得!」[8]――が、たんに「処世知」としてではなく、「生き方」の信条として、「倫理的な熱情eine ethische Pathetik 」(GAzRS, I, 40, 大塚訳、59、梶山訳/安藤編、74)を込めて説かれている。この点は、「一匹の親豚を殺せkill, tötenば、それから生まれてくる子豚を1000代までも殺し尽くすdestroy, vernichtenことになる。5シリングの貨幣を殺せmurder, umbringenば、それでもって生みえたはずのいっさいの貨幣――数10ポンドの貨幣を殺しつくすdestroy, morden(!)ことになる」(GAzRS, I, 31, 大塚訳、41、梶山訳/安藤編、89; The Writings of Benjamin Franklin, ed. by Smyth, Albert Henry, vol. 2, 1907, New York: Macmilllan, p. 371と語り出され、貨幣への注意を怠ることが、「資本の『胎児』を『殺すこと』」、つまり「倫理的罪悪」にたとえられている事実ひとつを採ってみても、一目瞭然であろう[9]

 ヴェーバーによれば、古今東西の箴言に照らして通例は「反りの合わない」貨幣増殖と倫理とが、このように「選択的親和関係」にあるという驚くべき事態――これぞまさしく「特徴的なことdas CharakteristischeGAzRS, I, 40,塚訳、59、梶山訳/安藤編、91)、「事柄の本質に属するdies vor Allem gehört zum Wesen der Sache」(GAzRS, I, 33, 大塚訳、43、梶山訳/安藤編、74)「知るに値する」こと、「なぜかくなって、他とはならなかったのか、と説明するに値する」ことなのである。

 

3.問題として比較されるのは、「人物」「倫理一般」ではなく、経済活動そのものへの意味づけ・「経済観」・「経済倫理」――ブレンターノの誤解(「人物」論への混濁と鈍化)

  この論点は、つぎの第6段落で、前期的大商人の代表ヤーコプ・フッガーを類例として引き合いに出し、歴史的パースペクティーフにリンクさせて、敷衍されている。フッガーは、「できる間は儲けよう」と引退勧告を拒んだ事跡からも窺えるとおり、外面的には「時は金なり」のモットーを地で行き、全生活時間を貨幣増殖に捧げる「生き方」をしていたと見られよう。そこで、この外面的類似を基礎としてフランクリンと比較すると、「精神相違がそれだけ鮮やかに浮き彫りにされる。「フッガーのばあいには、[そうした「時は金なり」の外面上の「生き方」にかぎっていえば]商人的な冒険心と、道徳とは無関係な個人的気質eine persönliche, sittlich indifferente, Neigungの表明であるのにたいして、フランクリンのばあいには、倫理的に彩色された生き方の準則eine ethisch gefärbte Maxime der Lebensführungという性格を帯びている」(GAzRS, I, 33, 大塚訳、45、梶山訳/安藤編、92)というのである。

 ところが、この一文を、丸ごとのフッガーが「道徳とは無関係な」あるいは「非道徳的な」「人物」であったのにたいして、丸ごとのフランクリンは、二文書抜粋に見られるような「倫理」の「持ち主」、その意味で「倫理的な」「人物」であった、あるいは、一個人フランクリンの倫理はおよそ、二文書抜粋に見られるような「精神」に尽きている、と読み誤った学者がいた。つまり、この学者は、問題を、経済活動にかんする意味づけ、「経済観」「経済倫理」「経済志操」ではなくふたりの主人公の人柄一般と取り違えたのである。そこでヴェーバーは、そうしたナイーヴな誤解は金輪際願い下げにしてもらおうと、改訂のさい、この箇所に注記を施し、自説の意味を明快に敷衍した。「いうまでもないことであるが、ここでいわんしているのは、ヤーコプ・フッガーが道徳に無関心な、あるいは無信仰な人物Mannであったとか、ベンジャミン・フランクリンの倫理一般Ethik überhauptが、上記(二文書から抜粋した)文章に尽きている、などということではない。ブレンターノは、この点でわたしが誤解しているのではないかと気遣ってくれているが、かれの引用(……)を俟たなくとも、あの有名な博愛家[フランクリン]についてはよもや誤解の心配もあるまい。問題はむしろ、かれほどの博愛家が、いかにしてまさにこうした[貨幣増殖を「最高善」とするような]信条を、モラリストのスタイルで[倫理的熱情を込めて]説くことができたのか、というところにある(ブレンターノは、フランクリンの口吻に固有なこの特徴を再現していない)。」(GAzRS, I, 33, 大塚訳、45-6、梶山訳/安藤編、93

 じっさいフッガーは、今日の「団地」の走りをなすような大規模な救貧集合住宅Fuggereiをアウグスブルク市郊外に私財を投じて建設するほどの篤志家、その意味で「倫理的」「道徳的」な「人物」であった。しかしかれは、まさに営利追求貨幣増殖という経済活動そのものにかけては、カトリックの教えにしたがって、それを「倫理とは反りが合わない」、それだけ懲罰に値し、慈善による「埋め合わせ」を要する「反道徳的unmoralisch」、ないしは「せいぜい大目に見られる」「道徳外のaußermoralisch」活動(領域)と感得していた。さればこそ、貨幣増殖の実を挙げれば挙げるほど、「秘かに疚しさを感じ」「死後の懲罰をおそれ」、慈善事業によって「精神的保険をかけ」、屈折して活路を見いだすよりほかはなかったのである。他方、フランクリンは、なるほど「博愛家」と呼ばれるにふさわしい一面をそなえてはいた。したがって、そうした一面をこそ「知るに値する」として「関心の焦点」に据える「フランクリン研究」があっても当然で、それはそれでいっこうに差し支えないばかりか、大いに望ましいことでもあろう[10]。とはいえ、フランクリンは、そうした一面にもかかわらず別の一面としては、営利追求/貨幣増殖を「最高善」とし、「勤勉」などの徳目を遵守しつつ実現すべき「自己目的」ともみなすような、経済活動そのものの意味づけ、すなわち「経済観」「経済倫理」「経済志操」「経済エートス」を、少なくとも二文書抜粋に確信をもって表明するほどに把持していた。さればこそ、かれは、貨幣増殖の実を挙げても、「秘かに疚しさを感じ」「死後の懲罰をおそれる」どころか、開けっ広げに、なんとその徳を説き、二文書や『自伝』にも語り出しては、広く他人にも勧め、そのような「博愛家」として振る舞うこともできたのである。

 

4.「歴史的特性」の鋭い理念型構成は、歴史縦断的/文化領域横断的な比較のパースペクティーフに依存――百年後の「博士」は、ブレンターノの轍を踏み、しかも比較の準拠枠を欠く「井のなかの蛙」視座に跼蹐

 ヴェーバーによれば、フッガーとフランクリンとの、まさにこうした特徴的な差異にこそ、経済活動の担い手経済主体における前期的商業資本期と近代的産業資本期との歴史的種差が認められ、それと同時に、それぞれの宗教的背景の類型的な相違も垣間見られる。まさにそれゆえ、まずはこの差異を(弛んだ「人物」比較論に還元して鈍化させるのではなく、逆に)一面的に取り出して鋭角的に、つまり理念型的に、定式化しておく必要がある。ということは他面、ある研究者が、一方ではフッガー、他方ではフランクリン、それぞれの資料(たとえば『自伝』)を、無方法無手勝流に抜き出し、どんなに精細に(たとえば「キーワード顕微鏡」で覗いて)調べてみても、そうした特徴的差異を、一方では経済活動の「歴史的種差」、他方では宗派の「類型的相違」に関連する「経済倫理の類型的差異」として捉えることはできず、鋭く定式化することもできない、ということであろう。ヴェーバーの理念型的定式化は、フッガーの経済観とフランクリンのそれとを、経済活動の歴史的変遷と宗教信仰の宗派的分化展開とにかんする知見を背景に据えそういう(歴史的にも文化領域的にも)縦断的また横断的に広げられたパースペクティーフのなかでそこからそのつど取り出される準拠枠のなかに置いて観察し、まさにそうするからこそ、双方それぞれに認められる「他にはなく(あるいは微弱で)、そこにのみある(あるいは顕著な)」特性を、鋭いコントラストをつけて描き出すことに成功しているのであろう。概念的定式化のそうした鋭さと妥当性とは、類例としてどれだけの他者を射程に入れなん重の比較をとおして当の特性を絞り出せるか、つまりパースペクティーフの広がり、したがってそのつどの「準拠枠」のとり方と数とによって、左右されるにちがいない。フランクリンの「他者」として、フッガーしか知らない者と、他にも多くの類例を知っていて、いくえにも比較ができる者とでは、特殊フランクリン的経済倫理の特性把握にも、当然差異が生じてこよう。ましてや、フッガーさえ知らず、フランクリンの経済観を、もっぱら当人の『自伝』を準拠枠として見る以外にはなすすべがない、というのでは、K・マンハイムのいう「井のなかの蛙」視座Froschperspektive!に跼蹐しているようなもので、「他者に開かれた歴史的パースペクティーフも「準拠枠」もないからには、歴史的特性を同定すること自体原理的に不可能であろう。できることはといえば、主観的な印象評言を、『自伝』から抜き出した任意の「キーワード」で潤色し、闇雲に「特性」と見せかけ、他者の鋭い定式化には、いきおい「グロテスク」「暴論」といった罵言を浴びせかけ、読者の「価値自由な」認識と評価に先手を打って「つぶそう」と奮闘するのが、せいぜい「関の山」といったところではないか。

 

5.「世界宗教の経済倫理」への視圏拡大も、「井の中の蛙」には「大風呂敷」「広漠たる世界」への「逃走」と映るほかはない

  それにたいしてヴェーバーは、個別の特性把握もパースペクティーフと「準拠枠」に依存しているというこの事情を知悉していた。そこでかれは、「倫理」論文をいわば出発点とし、方法論と概念装置をととのえて、「世界宗教の経済倫理」シリーズへと視野思考圏を拡大し、世界の主要な文化圏の「経済倫理」を、いくえにもわたる類例類型比較をとおして究明し、それぞれの特性を(「儒教」「ヒンドゥー教と仏教」「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」といった)世界宗教による被制約性に即して捉え、それと同時に(このシリーズでは)各「世界宗教」がそれぞれの文化圏の自然地理的/経済的/政治的諸条件によって制約されている「唯物論的」側面も、比較による特質づけに必要なかぎりで、捉え返していった。「倫理」論文は、『宗教社会学論集第一巻に収録され、その主題は、姉妹篇「プロテスタンティズムのゼクテと資本主義の精神」を間に挟んで、後続の「世界宗教の経済倫理」シリーズに引き継がれている。「倫理」論文では、上記のような世界史普遍史的パースペクティーフと研究課題を念頭におきながら、さしあたりは西洋文化圏にかぎり、「近代資本主義」と「前期的資本主義」との歴史的種差を、経済主体の経済観」「経済倫理」「経済志操」「経済エートス」に視点を定めそこに議論の土俵を限定してさればこそそれだけ鋭く把握し、定式化している。ヴェーバーは、そのうえで、「近代資本主義」、広く「近代資本主義文化」「近代的なるもの」の特性をそれだけ的確に、西洋のキリスト教、とりわけ「禁欲的プロテスタンティズム」の「世俗内的禁欲」、さらには中世修道院の「世俗外的禁欲」に「意味(因果)帰属」しようとしていたのである。

  ところが、羽入は、「井のなかの蛙」(「蛙」とはつまり没意味文献学の囚人)にふさわしく、「倫理」論文が『宗教社会学論集』の第一巻に収録されている事実についても、巻頭の「序文Vorbemerkung」で「世界宗教の経済倫理」との関連が語られ、位置づけられている事実についても、その意味を考えようとはしない。「倫理」論文のみを、研究者としての価値理念に照らし、価値関係性に即して研究対象に据えるというのではなくて、むしろもっぱら「もっもと有名な論文」という世評に阿ね、されば破壊の耳目聳動効果にも最大値を期待できようとばかり、いきなり抜き出し、本題から逸れた末梢部分について疑似問題を立てては、見当違いの「あら捜し」に憂き身をやつしている。他方、「世界宗教の経済倫理」シリーズのほうは、「広漠たる世界」「大風呂敷」(272-3)と思い込み、ヴェーバーは「倫理」論文からそこに「逃走」したのだと決めてかかる。なるほど、「倫理」論文一篇についてみても、その「全論証構造」はおろか、直接批判対象としているフランクリン論及のコンテクストと方法論的含意さえ、上記のとおり読み取れないのであるから、「世界宗教の経済倫理」となると、とても「歯が立たない」と尻込みするのも無理はない。しかし、羽入は他方、「倫理」論文を『宗教社会学論集』の原位置に即し、「世界宗教の経済倫理との関連において読み抜かなければ、一論文としての内容と意義も十全に理解し評価することはできないと、いくらなんでも薄々とは感じていたはずである。ところが、そうした読解はとても無理で、それにもかかわらず、いなむしろまさにそれゆえに、粒々辛苦の研鑽は捨て、一躍「批判者」「寵児」「第一人者」としてデビューし、そのように装い、自分の虚像を追いかけて生きる挙に出てしまった。自縄自縛としても、気の毒な。そうなれば、「世界宗教の経済倫理」を「酸っぱい葡萄」と決めつけて顔を背ける以外、なすすべはなかろう。「広漠たる世界」「大風呂敷」「逃走」とは、自分が「有利」と感得している土俵(「井」)から相手が「逃げた」と思い込みたい、「末人」流のルサンチマン動機を、よくぞ表明したものである。

 

6.「包括者」としての個人と、価値観点による制約と自由――理念型的特性把握の認識論的前提

 さて、話を少しまえに戻そう。フランクリン、フッガー、カトー、アルベルティその他誰であれ、「暫定的例示」にかぎって着目され、取り上げられる特定の経済主体も、一個人総体」としては、無限の多様性をそなえた一包括者das Umgreifende[11](K・ヤスパース)である。すなわち、どこまで研究していっても、そのつど地平線が後退して、対象として捉え尽くすことはできない存在者である。これはなにも、フランクリンのような代表的著名人ばかりではない。すべての個人が一「包括者」なのである。このことは誰でも、「自伝」を書き始め、体験事実を素材として自分一個人を「総体」として特質づけようとすれば、すぐ気がつくことである。

 ヴェーバーのばあい、この根本事態が、理念型的概念構成の認識論的前提として考え抜かれている。ある研究者が、なんらかの特定個人を研究対象として採り上げ、その特性を概念的に把握しようとするばあい、研究主体としての価値理念にもとづく価値観点からその被限定性を自覚しつつ、対象の限定された特定側面に照射を当て無限に残される他の諸側面はさしあたり不問に付さざるをえない。したがって、同一個人をとりあげるばあいにも、価値理念を異にする他の研究主体が、別の価値観点から、対象の別の側面に光を当て、別の特徴づけをなしうることは、原理上当然のこととして承認される。ヴェーバーは、そうした前提のうえに、フランクリンについても、その経済倫理」の限定された一側面のみを、ただそれを、研究主体としてのヴェーバーの価値関係的/歴史的パースペクティーフから見て「知るに値し」「説明するに値する」きわめて重要な「歴史的特性」として選び、その被限定性/一面性を十全に自覚しつつ、それだけ鋭く取り出して定式化しているのである。そこを、ブレンターノは、なにかフッガーなりフランクリンなりの「人物」ないし「人柄」自体に、それぞれの特性つくりつけにそなわっていてしたがってそれぞれを一義的に概念化できるかのような、「素朴実在論認識論的前提のうえに立って、議論をそういうsweepingな「人物」論にすり替えてしまった。そのうえで、ヴェーバーが方法自覚的に捉えているのとは異なる傾向なり、側面なりを持ち出して(くること自体はよいとしても)、それでヴェーバーの特質づけを「否認」、「棄却」できるかのように思い込み、(「概念Begriff」と「概念的に把握される現実Begriffene」との関係を考えぬかず、自分の価値理念を相対化して自覚化してはいない研究者に特有の)自己中心で彼我混濁の議論を展開したのである。

  そのように方法論上/認識論上ナイーヴな、ブレンターノの誤解にたいして、ヴェーバーは、第6段落の注に、上記のとおり簡潔で明快な反論を特記していた。また、その後約百年、「倫理」論文の読解も、ヴェーバー歴史・社会科学方法論の研究も、両者を統合的に関連づけて方法そのものを捉えようとする企ても、遅々たるものとはいえ、かなりの進捗を見せている。それにもかかわらず、このたび、一見「倫理」論文の注記を隅々まで精査しているかに見せかけながら、本質上/方法論上はブレンターノの轍を踏み、しかもフッガーさえ視圏にない「博士」が、大手を振って言論の公共空間に登場し、「井の中の蛙」所見を誇示し、ルサンチマンに駆られて、ヴェーバーを「死人に口なし」とばかり「詐欺師」とまで決めつけた。しかもこれに、「山本七平賞」はともかく、日本倫理学会「和辻賞」の選考委員までが、賛辞を呈して呼応/共鳴するにいたっている。この光景には、なんともはや驚くほかはない。こうした状況を放っておいて、日本の学問は、いったいどこまで漂流し、どこに行き着くのか。「子どもの火遊び」と「たかをくくっている」と、引火物/木造建築/乾燥/強風といった条件次第では、「大火事のもと」にもなりかねない。「ぼや」のうちに消火につとめ、延焼を防ぎ、火種を絶つことが、専門家の責任/社会的責任として要請されている。

 

7.理念型の経験的妥当性をめぐって――ふたつの誤解との二正面作戦

  ところで、ヴェーバーの理念型的概念構成にかんする上記のような議論にたいしては、おそらくつぎのような一連の疑問が投げかけられるであろう。では、「理念型」とは、研究者の主観的な価値理念に応じて、任意にいかようにも構成できる代物なのか、それでは、研究者の主観的な価値理念の数だけ、異なる理念型が林立して、無政府状態を呈することになりはしないか、そうしたものが経験科学としての歴史社会科学の概念用具たりうるのか、と。こうした疑問をめぐっては、いまなお専門家の間でも議論が絶えない[12]。ここでは、そのすべてに立ち入るわけにはいかないので、本論争にかかわる重要な一点、すなわち、理念型の「経験的妥当性」という問題についてのみ、ここで私見を述べておきたい。

  この問題については、「客観性論文」の結論部分に、ヴェーバー自身による誤記と(英訳を除く)全翻訳の誤訳があって[13]「経験的にあたえられたものが、……認識の妥当性を証明するための事実上の根拠[台脚]とはどうしてもならない――この証明は経験的にはできないのだ――」(出口勇蔵訳)、「経験的な所与にもとづいて認識の妥当性を証明することは経験的に不可能である」(徳永恂訳)という解釈がなお尾を引いており、これに見合って、認識のための概念用具としての「理念型」についても、その「経験的妥当性を、経験的所与にもとづいて検証することは、経験的に不可能である」と解される嫌いなしとしない。じつは、「認識の妥当性」と訳されている箇所は、語法上はともかく、「客観性」論文全篇の趣旨と、「倫理」論文ほか経験的モノグラフにおける当該方法の適用例とに照らして、「価値理念の妥当性」と改訳されなければならない。そうでなければ、経験科学的認識がそもそも成り立たない、という奇怪しなこと(自殺論法)になろう。当該箇所でヴェーバーがいわんとしているのは、そこまでの論理展開を追思惟してくれば明らかなことであるが、平明な一例を挙げれば、「近代的文化諸形象にたいする禁欲的プロテスタンティズムの経験科学的因果的意義がどんなに大きいと証明されても、だからといって禁欲的プロテスタンティズムの宗教的本質的価値がそれだけ高まるというわけではない。そこのところで両者の(「経験的妥当性」と「価値理念の妥当性」との)混同が起きると、護教論上の争いとなって、前者にかんする認識の『客観性』は成り立たなくなる」という趣旨にすぎない。英訳以外の大方の訳者は、まさに「経験的妥当性」と「価値理念の妥当性」とを混同していて、読者を、「社会科学と社会政策にかんする認識の『客観性』」ばかりか、経験科学そのものの自己否定へと誘って怪しまない。この一例は、抽象的な方法論文献を字面だけで読んで抽象論議に耽っていると――言い換えれば、具体的な適用例との統合的解読をとおして方法そのものを具体的に会得しみずから適用しようとする努力を怠っていると――、基本的な問題にかんする途方もない誤解に、いつまでも囚われっぱなしになる[14]という好例、その意味における警鐘、と受け取っていただきたい。

 なるほど、理念型的に構成された概念や理論に、「現実を『法則から演繹できるという意味の経験的妥当」は求められないし、求めてはならない。ヴェーバーは、理念型論を、カール・メンガーにたいする批判をとおして打ち出したのであるが、その批判の眼目は、メンガーが法則的認識と歴史的認識とを区別しながら、「精密的方針による抽象理論」の諸定理に、この(「現実を『法則』から演繹できる」という)意味の経験的妥当を要求したという一点にあった。「抽象理論」の方法的捉え返しであるヴェーバーの理念型も、この意味の経験的妥当を要求するものではない。しかし、それでは理念型が、およそいかなる意味でも経験的妥当性を問われない、あるいは討論/論争による経験的検証を受け付けない、そういう観念的構成物なのかというと、けっしてそうではない。かれ自身、「客観性」論文のある箇所で、「手工業から資本主義への発展(転形Umbildung)の理念型」について、つぎのように述べている。

「経験的−歴史的な発展の経過が、事実上この構成された経過と同一であったかどうかは、この構成を索出手段として援用することによって初めて、理念型と『事実』とを比較するというやり方で検証することができる。理念型が『正しく』構成されていて、事実上の経過がこの理念型の経過に対応entsprechenないとすれば、よってもって、中世の社会は、まさしくある関係においては厳密に『手工業的』ではなかったという証明Beweisがなされたことになろう。……そのばあい、当の理念型は同時に、中世社会の『手工業的』でない構成部分を、その特性と歴史的意義とにおいていっそう鋭く把握する道へと、研究を導くであろう。そうであれば、理念型は、まさしくそれ自体の現実性を露呈することによって、その論理的な目的を果たしたといえる。つまり――このばあいには――、あるひとつの仮説が検証されたことになるわけである。」(GAzWL, 203, 富永/立野訳、138-9ぺージ)

  厳密にいえば、ここでは、歴史・社会科学的研究の特定局面――すなわち、「中世社会」を研究対象とし、「手工業から資本主義への発展(転形)」という主題につき、すでに構成された理念型概念を、「中世社会」における現実の経過と比較しつつ検証する、という局面――が取り出されて、論じられている。そのようにして経験的妥当性を検証されるべき理念型概念そのものを、どのように構成していくのか、という手順が問われ、その局面における経験的妥当性問題が論じられているのではない。しかし、(じっさいには重要な)そうした違いはひとまずおくとして、理念型一般について、まず抽象的にいえば、「理念型」が、概念上の純粋な姿では現実のどこにも見いだされない『思想像』『(論理的)理想像』『ユートピア』であるといっても――というよりもむしろ、まさにそうであればこそ――、「個々のばあいごとにin jedem einzelnen Falle、現実がどの程度、この理想像に近いか、または遠いか」、あるいは「事実上の経過がその理念型に対応するか」どうかが、たえず問われなければならない。ヴェーバーの経験的モノグラフにおけるじっさいの適用例についてみると、この「精神」について「歴史的個性体」としての理念型概念を構成していくばあいがまさにそうであるように、かれの思考は、ある(第一要素的)理念型について、それが一面的に鋭く相対的極限にまで煮詰められればこそかえってその経験的妥当性も同様に鋭く問われ、その結果むしろ、経験的事実との(一致−不一致や遠近よりも)質的な不対応やズレが発見され、まさにそうした不対応の経験的事実にこんどはよく対応するつぎの(第二要素的)理念型を構成する道が開け、そのようにして一歩一歩、よりいっそう現実、とりわけ現実における対抗的諸要素の動的均衡、したがって変動傾向にも迫る「総合像へといわば自己止揚」を遂げていっているのであり、まさにそうしたところにこそ、(抽象的な方法論文献のどこにも定式化されてはいない)ヴェーバー的な理念型思考のダイナミズムがあり、本領が発揮されている、といってもよいであろう。ヴェーバー自身、方法論的反省よりもじっさいの具体的な研究実践に優位を認めていたのであるが、そうしたかれの研究実践における思考展開を追思惟してみれば、そのかれが、歴史・社会科学的認識したがって理念型の経験的妥当性を否認するとはとうてい考えられないし、そのようなかれが「客観性」を「断念Verzicht」した「新観念論者」であるという主張(F・H・テンブルック)も、まったく理解できない。むしろ、そうした言説がいまなお影響力を保っているのも、ヴェーバー没後、いっそう専門分化が進んで、方法論研究も経験的モノグラフ研究もそれぞれ一人歩きし、他を顧みる余裕がなくなってしまったからではないか。そうした陥穽に堕ちると、「理念型」が、経験的事実による検証を怠る独善の隠れ蓑とされたり、経験的事実を突きつけての批判をかわす遁辞として用いられたりもしよう。そこでわれわれは、理念型について語り、考えるばあいには、よく注意して二次文献よりもヴェーバー自身の著作に当たり、かれ自身の具体的適用例に即して会得し、みずから適用/応用にもつとめ、そのさい討議論争をとおして経験的妥当性を検証し、そうすることによって(ヴェーバー自身に見られたような)ダイナミックな展開を企てるように心がけなければならない。これが、この問題にかんする筆者の所見である。

 というわけで、理念型とは、「包括者」としての現実について、研究者一個人/一主体の「価値理念」にもとづく「価値観点」から照射を当て、そうして照らし出される「価値関係」的側面ないし傾向を、それぞれの一面性を自覚して抽出し、思考の上で極限化してえられる観念的構成物、その意味では「虚」である。理念型は、そのように「可能的なもの」をとおして「現実的なもの」を捉えようとする叙述手段/位置づけの手段/索出手段/(因果的妥当性の)検証手段として、研究に役立てられる。が、他方、現実の側面ないし傾向に対応しない「虚」ではないし、そうであってはならない。理念型について「経験的妥当性」を問うことは、可能であるし、必要でもある。それも、所与の理念型を「虚妄」との批判から守るという消極的な意味においてばかりでなく、「包括者」としての現実の関連諸傾向にいっそう多面的に迫っていき、諸傾向の対抗的均衡構造したがって変動傾向を探り出して、ダイナミックに展開していくためにも、その意味で積極的にも必要なのである。こうした主張にもとづいて、筆者は、Ⓐ「包括者」としての現実にかかわる概念構成の理念型的・価値関係的な被制約性を自覚せず、そうした制約にしたがうかぎりにおける価値観点の自由な選択にも無頓着で、ばあいによってはそうした自由な選択と展開の可能性に「立ちはだかり」「足を引っ張る」ばかりの論者と、逆に、Ⓑこの「自由な展開の可能性」にいわば独善的に収斂し、その「自由」を「楯にとって」「責任は執らず」、理念型的概念の「経験的妥当性」も否認し、討議・論争をとおしての相互「検証」も受け付けようとしない、といった論者との、双方にたいして、二正面作戦を展開していかなければならない、と考えている。

 では、羽入辰郎はどうか。かれは、明らかにⒶの陣営に属する。なるほど、かれは、ヴェーバーが「手工業から資本主義への転形」の理念型について、経験的検証の必要と意味を説いた、「客観性論文」中の上記の箇所には注目し、引用してもいる。しかしかれは、その箇所のみを、「価値関係性にかかわる議論から切り離して、自分の「素朴実在論」的な根基のうえに「取ってつけて」いる。ヴェーバー理念型論の一面を、まさにその一面性を自覚せずに振りかざし、「理念型つぶし」の論理に組み換えているのである。経験的妥当性にかかわる検証の要請を、ヴェーバー自身のように「価値関係的被制約性/一面性を自覚すればこその自由な価値観点選択とダイナミックな思考展開」の契機として、積極的に活かそうとするのではない。比較のパースペクティーフも「準拠枠」もなく、議論の土俵も「人物」批評にすり替えておいて、自分の価値理念/価値観点/価値関係も自覚せず、ただナイーヴな場当たり的印象を、根拠なしに偏愛している『自伝』から引き抜いてきた凡庸な素材とその見当違いの解釈で粉飾しては、「精神」にかんする鋭い理念型構成をもっぱら「鈍らせ」、「足を引っ張り」、「つぶそうとし」、なんとも否定的で退嬰的な、そうした「八つ当たり」論議の「正当化」に利用しているだけなのである。したがって、そういう羽入の「批判」にたいする筆者の反批判は、Ⓑの論者であれば主張しかなねい、「価値理念」が異なるから「理念型」も異なるので、議論の必要もない、といって「かわす」類の消極的「門前払い」ではなく、「精神」にかんするヴェーバーの理念型が、ブレンターノをさらに矮小化した羽入の「批判」にもかかわらず、あくまでも経験的妥当性をそなえ、フランクリンのしかるべき資料に就き、それ(理念型)に対応する現実の傾向を挙示することによって、十分に検証確証される、という趣旨の、「正面から受けて立つ」積極的論駁である。以下、「井のなかの蛙」の「理念型つぶし」論に一齣一齣、具体的に反論していこう。200512日脱稿つづく

 

 



[1] 羽入には、「なにがなんでも原典主義」の系としての「なにがなんでも『自伝』主義」のほかに、「『自伝』なら、『オリジナル草稿』も調べ(少なくとも見るには見)て、ヴェーバーよりもよく知っており、土俵として有利」との思い込みがあるのであろう。

[2] 本コーナーに掲載の拙稿「マックス・ヴェーバーのフランクリン論――理念型思考のダイナミズム」、同「批判結語(3−2)」§§3〜7、参照。

[3] ここで予め注意しておけば、あくまでも「当の精神そのかぎりで典型的に表現している意味形象(たとえば、フランクリンならフランクリンの人物ではなく関連経済倫理表明した、特定文書抜粋)」であって、当の「精神一面では体現している「なんらかの人物』・一個人総体を表現する意味形象(たとえば、そのばあいには他に優る資料となる『自伝』)」ではない。方法論的思考制御の弛緩から、研究対象を「精神」から「人柄一般」に鈍化させ、その「人物」評、(したがって資料としては)『自伝』を特別視する、というような錯誤と混濁に陥ってはならないのである。

[4] たとえば、フランクリン「倫理」の「功利的傾向」。

[5] ここでは当然、第一「要素的理念型」構成において準拠された「二文書抜粋」以外に、たとえば『自伝』などからの抜粋含む。

[6] 「予断が入らないvoraussetzungslos」とは、ここから一歩一歩究明され、論証されるべき「われわれの主題」としての「宗教的なものとの関係」を、(丸ごとのフランクリンが、ではなくこの二文書抜粋に表明されたかぎりにおける意味内容が、直接には含んでいないから、論点先取ないし「原理請求petitio principii」にはならない、という意味である。

[7] ということはつまり、フランクリンの生涯を、(素材をみずから選び、それなりの潤色をともなうにはちがいないとしても)比較的満遍なく伝える『自伝』は、「フランクリン研究」、とくに「フランクリンの全体像」を構築しようとする「固有の意味におけるフランクリン研究」には不可欠で、相対的には最適の資料かもしれないが、まさにそれゆえ、特定の研究主題との関連においてかれの経済観」「経済志操」「経済倫理」「経済エートス」関心の焦点を絞っているこの「倫理」論文のパースペクティーフにおいては、補助資料としてならともかく、「精神にかんする鋭い理念型構成の素材としてはほとんど役に立たない、だから「暫定的例示」資料としては意識的に顧みない、という意味である。

[8] ここで、この「心得」の独特の性格に注目しておきたい。すなわち、「名声」をひとまずおくとすれば、「富」それ自体が、「勤勉という徳目の遵守をも手段として追求されるべき「目的」、(しかも当面、暗黙の裡にせよ、さらに上位の「目的」――たとえば「人として自然の」「幸福」「快楽」――が設定されて、その「手段」として「下属」する関係には置かれていない、その意味における)「自己目的」、また(この「目的−手段」関係全体倫理的に彩色されるとすれば)「最高善」として、措定されている。反面、「勤勉」が「固有価値」「自己目的」として措定され、「価値合理的」な遵守を要請されるというわけではなく、「富」という「目的」を達成する「手段」として位置づけられているために、まさにその「手段」としての効果に力点が移動し、「効果が等価であれば外観の代用で十分」という「偽善」にも反転しかねない関係にある。したがって、この「心得」は、ヴェーバーが注目する「フランクリン経済倫理の構造」を簡明に表示する恰好の標語ともいえよう。

[9] この引用文中の感嘆符号は、原文にはなく、キュルンベルガーかヴェーバーが付加して、読者の注意を促したものである。ヴェーバーは後に、「そういう『経済倫理』なら、ルネッサンス期の文人レオン・バッティスタ・アルベルティにもある」というゾンバルトの批判に答え、自分のほうから古代ローマの文筆家カトーの類例も引き合いに出しながら、「カトーはもちろん、アルベルティの所説にも、そうしたエートスが欠けている。かれらが説いたのは処世術であって、倫理ではない。フランクリンのばあいにも功利主義が見られないわけではないしかしかれの若い商人への説教には紛れもなく倫理的な熱情ethische Pathetikが見られ、その点がかれの特徴となっている。――これこそが問題なのである。――かれにとっては、貨幣への注意を怠ることは、資本の胎児を『殺すmorden』ことで、だから倫理的罪悪ein ethischer Defektなのである」(GAzRS, I, 40, 大塚訳、59、梶山訳/安藤編、74)と述べている。

[10]ここに伏在している「理念型構成の認識論的前提」問題については、後段§6以下で、まとめて論ずる。

[11] Jaspers, Karl, Vernunft und Existenz, 1949, Bremen: Johs. Storm, S. 34ff.、など参照。

[12] たとえば、本コーナーに論稿を寄せている森川剛光氏と筆者との間にも、見解の相違、したがって論争がある。拙稿「マックス・ヴェーバーにおける社会学の生成、I. 190307年期の学問構想と方法」、神戸大学社会学研究会篇『社会学雑誌』20号、2003, pp. 3-41, とくに、pp. 20-1, 32; マックス・ヴェーバー、富永祐治・立野保男訳/折原浩補訳解説『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、第7刷[19982003, 岩波書店, 「第7刷へのあとがき」, pp. 352-5, 参照。

[13] 上掲、富永・立野訳『客観性』、pp. 340-4、参照。

[14] 「因果帰属の論理」「社会の正常−病態の識別規準」といった基本的な問題にかんする誤訳−誤導の他の諸事例については、「抽象的方法論議の陥穽――専門学者による誤訳とその踏襲」、拙著『ヴェーバーとともに40年――社会科学の古典を学ぶ』、1996、弘文堂、pp. 42-54参照。